二年後、共産党軍の大軍を国民党支配地域の奥深くへ送り込めと主張する毛沢東に対して、指揮たちからは、頼るべき作戦基地もなしに傷病兵をどうするのか、という質問が出た。毛沢東はいも気軽に、「簡単なことだ……傷病兵は群衆のもとに残していけばよい」と答えた。戦況を見れば、毛沢東が近いうちに勝利をおさめることは見込めそうになかった。スターリンはこの現実に合わせていちはやく方針を修正した。 一九四五年一一月一七日、国民党軍が東北南を強襲したあと、落介石はソ連の「態度がとつぜん変化した」ことに気づいた。ソ連は中国共産党対して大都市を明け渡すよう指示し、 一刻も早く東北全体の覇者になり、さらには中国全土で利をおさめたい、という毛沢束の希望に引導を渡した。この決定が毛沢東に壊滅的なショックをもたらすことを承知していたスターリンは、毛沢東をなだめるジェスチャーを見せた。
一八日にソ連から届いた電報には、「毛岸英が″四一″﹇延安の名﹈ へ行くことについて貴殿の許可を求めている」とあった。スターリンはようやく、息子を返と言ってきたのである。これは毛沢東にとって朗報ではあったが、東北を手中にする野望の埋めわせにはならなかった。毛沢東はソ連に対して必死の懇願を続け、共産党軍には山海関を死守せと不毛な命令をくりかえしたが、その両方が失敗に終わったのを見て、とうとう神経衰弱で倒れしまった。 一一月二二日、毛沢東は棗園を出て、高級幹部専用の特別病院に(入院患者を全員い出してから)入院した。何日ものあいだ、毛沢東はベッドから起き上がれず、 一睡もできず全身を震わせ、手足を痙攣させ、脂汗をにじませたまま横たわっていた。