蒋介石軍を東北から締め出しておくことなど共産党軍には不可第二七章 ソ連軍がやってくる―能であろうと予見していた。劉少奇は毛沢東とは異なる戦略を持っていた。毛沢東が重慶に滞在しているあいだ、劉少奇は東北の共産党軍に対して、ソ連およびソ連衛星国との国境付近に堅固根拠地を築くことに集中し、そこで近代戦に必要な訓練を受けられるようにすることが重要だ、指示した。 一九四五年一〇月二日、劉少奇は、「主力部隊は山海関に展開して落介石の進軍をぐのではなく、ソ連、モンゴル、朝鮮との国境に展開して足場を固めるように」という命令を出た。
加えて、劉少奇は、大都市から撤退する準備をし、農村部に分散して根拠地を建設せよ、と示した。しかし、重慶から延安に戻った毛沢東は劉少奇の命令を取り消し、 一〇月一九日付で、主力を海関および鉄道の主要接続地に集中せよ、という命令を出した。別の命令にあるように、毛沢東一刻も早く「東北全体を手中に収め」たかったのである。しかし、共産党軍の力量ではそれは無だった。
毛沢東と軍との関係は、概して疎遠だった。毛沢東は軍に出向いて兵士をじかに激励したことなど一度もなかったし、前線を視察したこともなく、後方の部隊を慰問したこともなかった。軍に心がなかったのだ。東北に派遣された兵士の中にはマラリアにかかっている者が多く、熱で弱っ兵隊をむりやり何百キロも行軍させるために、 一人の病人を健康な兵士が前と後ろからサンドッチのようにはさみ、腰にロープをつないで引っぱって歩いた。傷病兵に関して、毛沢東は彼らを元の農民に預けて置いていく、という対処法を好んだ。しかし、地元農民とて生きるか死ぬかの活であり、薬など入手できるはずもなかった。